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抽象思考の価値評価(続)

Editors' Toolbox

公開日:2007/08/25 23:39

「抽象」は何の役に立つのか?

さきにご紹介したオーターの論文は、次のように労働を分類し、1と2をコンピュータ化が困難な知的労働であるとして、これらの区分への需要増加、賃金上昇の理由を説明していた。これらは「抽象思考」を必要とする、というのがコンピュータ化が困難な理由である。日本ではこれらは必ずしも「抽象思考」と結びつけられてはいない。それどころか、抽象的思考の徴候でも見せたら「コミュニケーション能力」に問題があると思われかねない。この差がどこから来るか、それにどういう意味があるのかを考えてみよう。
  1. Expert Thinking:問題の認識→解決
  2. Complex Communication:対人説明、説得
  3. Routine Cognitive Task:ルール化可能な知的作業
  4. Routine Manual Task:ルール化可能な肉体労働
  5. Non-Routine Manual Task:ルール化困難な肉体労働

抽象思考が重要であるのは、次のような場合であると考えられる。

  • 複眼思考が必要となる場合(視点、抽象化)
  • 異質な要素への対応が必要となる場合(インタフェース)
  • 環境の変化への対応が必要となる場合(戦略と戦術)

米国では、例えば保険請求のように、個々の案件や情報の性質に基づいた処理は、「ルール化が可能な可能な知的作業」であるとして、プロセスとその執行上のルールを明示化し、ソフトウェア化していった。現場の人間の判断よりも、事務的な効率性、ルールの一貫性と遵守の価値を重視したため、あるいは新しいビジネスモデルを実践する上で「組織作り」をショートカットをしたかったためである。日本はあまり知的でない作業(例えば転記)などの機械化は進んだが、ルールの抽出とコンピュータによる処理の代替はあまり進まなかった。プロセスとルールは、すなわち組織と権限であり、集団にとっては企業とか戦略とかいう「抽象概念」よりも生々しく、重要なものに思われるからである。

抽象思考とは、問題を扱うときに、必要に応じて(最適な結果を求めるために)帰納/演繹の推論を自在に行うことだ。ではなぜ米国で珍重され、日本で敬遠されるのか。理由は2つ考えられる。一つは、上述したように、これが集団主義になじまない、「個人の自立」を前提としたプロフェッショナリズムに由来すること。2番目の理由は、抽象概念の多くが難解な看護やカタカナで表記される「輸入物」で、ハレの言葉ではあっても、なんとなく身の丈に合わない、嘘くさいものに感じられてしまうということである。

概念の翻訳はむずかしい。デモクラシーのなかった時代にこれを「民主主義」とした訳語が定着してしまったが、本来デモクラシーは制度であって価値観を反映する「主義」ではない。だから「民主主義の価値観を共有する」国と連携するなどというトンチンカンな「外交戦略」について議論しようと思うと、定義にさかのぼらないといけなくなってしまう。リバティを「自由」と訳したために、この仏教用語が持っていた「自侭」という否定的印象を取り去ろうと、「自由には義務が伴います」などと別のお説教を垂れる必要が生まれた。一部の和製漢語は中国に逆輸出され、さらに混乱を呼ぶ。(漢語に関しては中国人はさすがで、「オブジェクト指向」などは「面向対象」、つまり「対象に面と向かう」という見事な訳語をあてている。)

それはともかく、抽象思考は今日、日本においても避けて通れない。理由は2つ。第1に、それを避ければ、出来合いのルールを搭載したソフトウェアを買って外国製のオートメーションを後れて「導入」するしかない。第2にそれによって「ルール化される知的作業」をコンピュータに代替させる(雇用を減らす)ことはできても、独自の付加価値を発見=創造し、それによって競争に勝つという可能性が失われる。

環境が急激に変化する時代、境界が崩れる時代に流されないためには、抽象思考が不可欠である。それは価値の発見=創造をダイナミックに行うことである。★

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